エッセイ エッセイのバックナンバー

人間50年生きて来て振り返ってみると、あの日、あの時、ああしたからこうなった的なことがよくわかります。人生の分岐点、自分で選んだことばかりではなく、周りの状況でそうせざるえなかった、ということも少なからずあったと思います。旦那の場合、子供の頃からかなり波瀾万丈な物語があったようです。

小学校低学年までは高度成長期で牛乳販売店の稼業も右肩上がりで従業員やお手伝いさんが何十人もいる中で何不自由なく育てられ、両親も仲が良く、学業も優秀で、絵が上手く、ひょうきんでクラスの人気者だったようです。ところが小3の頃からどうも雲行きが怪しくなってきました。まず担任の先生が超イジワルな人物でその標的にされてしまいすっかりやる気を失ってしまったそうです。あるとき、写生でリアルな動物の絵を描いて提出したら呼び出され「先生は君のような絵ではなく、この子のような子供らしい絵を見たい」と言って見せられたがゾウかサイかカバかわからないヘタクソな絵で、それを見て大笑いした彼をまたこっぴどく叱ったそうです。しかし心の中で「この先生、センスねぇなぁ」と思ったらしいです。見抜いていたんですね大人を。

そのうえ軽い読字障害で、今でこそ生まれつきの障害と認識されていますが、当時は読み書きに疎いのは単なる怠け者で、毎日できるまで居残りをさせられ、彼にとっては苦行そのものでした。

中学では夏休みの宿題をやっていかなかったら先生に、「幸福行きの列車は出てしまった。そしてそれにお前は乗り遅れた・・・」とまで言われるしまつ。高校進学も本人の希望とは裏腹にデザイン科へ進むことに。そんな調子で大学受験もしてはみたものの受験科目を間違えたり、面接官のダレた態度に腹をたてタンカを切って席を立ち見事不合格。そのまま将来の見通しもないまま映画の専門学校へ。卒業後小さなデザイン会社に就職したのはいいのですが、社長にお金を貸したらトンズラされてしまい、その間に両親の離婚、母の再婚などで家庭内もごたごたしていたらしいです。とここまで聞くと普通の人ならお先真っ暗で頭を抱えてしまいそうですね。

その後稼業を手伝いながら趣味で写真を撮っていたというわけです。そんな宙ぶらりんな息子に業を煮やした義父は酒に酔って大暴れしたとき「お前は稼業を継ぐ気があるのか!?」と怒鳴り、売り言葉に買い言葉でつい「俺は写真家になる!!」と大見得をきって家を飛び出たそうです。その時点ではなんの自信も根拠もなかったとのこと。

しかしその事件が彼にとってのターニングポイントだったのでしょう。それからは自らを「写真家」と名乗り、写真一筋でやってきたわけです。本人曰く、「これしかできないから」、それが天職というものなのでしょうか。もしあの時稼業(雪マークの販売店)を継いでいたら今頃は・・・。もし中学の時に勉強ができていたら、もし読字障害でなかったら、大学に行っていたら、稼業を継いでいたら今の写真家野寺はいなかったでしょう。でもひとつ言えることはそんな冴えない青春時代にも“何かを表現したい”というアーティスト気質は脈々と彼の中で育っていたと思われます。まだ人生まだ半ば、この人生が良いか悪いかはたぶん死ぬときにしかわからないのかもしれませんが、SO FAR SO GOOD、今のところ「好きなことで飯が食えて、毎日が楽しいからいいんじゃない」と言っています。

旦那の半生をこんなに短く書いてよいのか?でも全部書いてしまうと大変なことになってしまいますので大幅に割愛させていただきました。(笑い)

写真家 野寺治孝
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