エッセイ エッセイのバックナンバー


前号のつづき。

 にっかつTV映画芸術学院では基本的な映画理論、美術、撮影を学びました。このときの美術の先生が木村威夫氏で日本映画の美術の巨匠と呼ばれている方でした。木村先生には大変可愛がってもらい「君は大勢で作る映画よりもコツコツ一人で何かを作る職業のほうが合っている」と言ってくれて青山にある小さなデザイン事務所を紹介してくれました。ここで4年間働きました。写真は集団剣での活動があったので続けていましたがいま一つ自分の撮りたいものと剣で評価されているものとにギャップがありました。

 1980年22歳の夏、撮影が目的でアメリカのサンフランシスコとロスアンゼルスに行きました。当時ポパイ誌などで西海岸が取り上げられ大ブームでした。音楽もイーグルスやリンダ・ロンシュタット、映画もサーフィンをテーマとしたビッグ・ウェンズデーが大ヒットしていました。訳もなく原宿にサーフィンボードを持った丘サーファー族ものまで現れていました。それまでは東京でアメリカっぽい風景を見つけて撮影していましたがアメリカへ行ってしまえば360度どこを撮ってもアメリカでした。当たり前ですね。コダック・エクタクロームを20本、カメラはミノルタSRT101、レンズは35-70ズームと200ミリをバッグに詰め取り捲りました。とにかく楽しいの一言でした。自分としてもイメージ通り撮れたのでさっそく集団剣の会長Y氏に見てもらいました。評価は「とにかく青い。そして若い」でした。これに気をよくした私は横浜、横須賀などアメリカを感じるところを撮り歩きました。この時点でY氏にけなされていたらたぶん写真を止めていたことでしょう。この頃の私にとってはY氏の評価は大変影響力がありました。

 デザインの仕事に嫌気がさし、82年に会社を辞め実家の牛乳販売業を継ごうと思いました。仕事は朝早いぶんだけお昼には終わってしまうので午後から郵便局で小包配達のバイトをしました。一日に10時間近く軽トラに乗って汗をかきました。仕事が終わって飲むビールは最高で飯もうまく充実はしていましたが何か本当の充実感はありませんでした。

 84年にニューヨークに行きました。理由は西海岸のときと同じでこの頃NYがブームだったのです。音楽はブルース・スプリングスティーンのボーン・イン・ザ・USA、マドンナやシンディー・ローパー。映画はワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ。実はこのとき大きなヘマをし飛行機に乗り遅れたのです。でも私だけでなくツアー参加者3人で乗り遅れたので旅行会社に抗議をし翌日1日遅れでNYに行くことができました。初めての摩天楼にビビッてしまいました。バスがタイムズ・スクエアに入ったときのエネルギー感は衝撃でした。西海岸の明るさよりもNYの渋さのほうが自分には合っているような気がしました。ヴィレッジ・ヴァンガードに夜な夜な通いジャズ漬けの毎日でした。多少ビビりながらも地下鉄に乗ったり、度胸試しのつもりでハーレムに行ったりと毎日刺激でした。このときの写真で帰国後デビューするなんてまだ想像すらできませんでした。

次回につづく。

写真家 野寺治孝
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