エッセイ エッセイのバックナンバー

 初めてカメラを持ったのは小学5年生の時だったと記憶しています。父が使っていた『リコー・オート・ハーフ』で、被写体は野球部の友人。正確には友人を撮りたかったのではなく、宙に浮いたボールが撮りたかったのです。一枚だけ狙い通りに撮れました。その後戦車のプラモデルやプロ野球選手などを兄の一眼レフ『ミノルタ・SRT-101』で撮るようになりました。その延長でプロになってからもミノルタを使っていました。兄の一眼レフは今でも持っています。

 高校はデザイン科のある学校に通っていて写真の授業がありました。6月のある日曜日、5~6人で班に分かれて原宿へ撮影に行ったのが思い出として残っています。午後から雨が降ってきたので撮影を中止して皆で渋谷のジャズ喫茶に行きました。初めて聴くジャズとコーヒーとタバコの匂いに少し大人になったような気分でした。

 高校卒業後、映画の専門学校に進みました。映画製作展のときはデザインと写真の腕を買われ、タイトル描きとスティール写真撮影を掛け持ちしました。その時の恩師に「君は映画よりもデザインに向いている」と言われ小さなデザイン事務所を紹介してもらって就職しました。商品撮影の立会いでよくスタジオに入りカメラマンとも仲良くなりましたが、特に商品撮影には興味がありませんでした。その頃、片岡義男さんの小説が好きでその世界を映像化してみたいと漠然と考えていました。どこへ行くにもカメラを持って行き撮りまくっていました。少ない給料でミノルタのX-700をローンで購入し、レンズも少しづつ増やしていきました。生意気にもフィルムはこの頃からコダック・エタクローム(リバーサル)を使っていました。とにかく写真を撮るのが楽しくしようがない時期でした。地元浦安の写真クラブ『集団・剣』に参加したのもこの時期です。今でもこのクラブの一員です。

 1980年に初めてアメリカの西海岸に行きました。当たり前ですが360度どこを見てもアメリカ。思いっきり撮りまくりました。当時西海岸ブームで、雑誌「ポパイ」が創刊されたり、音楽はイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が大ブレークしていました。なんの根拠もないのですがアメリカに行けば自分が大きく飛躍できると思っていました。しかし、一番の思い出はディズニーランドで遊んだことでした。ただ、アメリカの空気を肌で感じたことは今となっては大きな収穫だったと思います。

 デザイン事務所は結局4年間勤め辞めました。デザイナーとしての才能がないのもわかりました。しかし、辞めた最大の理由は社長の「理論は感性より勝る」という一言でした。私にはどうしてもそのことを受け入れることができなかったのです。今でもその信念は変わりません。

写真家 野寺治孝
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